法事でお寺にいきました。きらびやかなシャンデリア(のような天井から垂れ落ちる金ピカの飾り)の下でお坊さんがお経を唱えて、煙がモクモクして、よく乾いた木魚の音が響く中、姪っ子と甥っ子が我慢しきれずにウズウズするので、取り押さえたり、抱っこしたり、連れ出したり、気が気じゃないお経タイムでした。
解放されてラリホーっとお墓に向かう時は猛ダッシュ。
仏教ができたころは飢饉も悪天候も疫病も、農作物の収量も、政治も、ぜんぶ神様仏様にお願いするしかなく、とにかく祈ったわけです。祈ることが大事なことだから、力がある人が専門職として祈る人になり、宗教に発展し、祠を建てたりして祀って大事にされてきました。そのうち力をもつと政治もやりだして、だんだん違う方向にいくわけですが、とにかく命にかかわることが不確定要素でまみれていたから、祈った。よくわからないことは祟りとか、信じれば救われるとか。精神的にも救われるように、非常によく出来たロジックがあり、今でも宗教は生き物の生死と社会の倫理観を強く支えています。
で、いろいろ明確になってきた今日、この文化はどう残っていくのかな、と流れるようなお経を聞きながら考えました。心の拠り所としての価値はものすごく大きい。さて、これからこの場所って、宗教って、どうやって残っていくんだろう。超しっかりした文化的背景を持ったインフラ、神社仏閣。芸術作品として残っていくのか、地域密着で残っていくのか。
言葉も生き物で、日本語もどんどん変わっていきます。それは日常的に使用されるツールだから、使いやすいように変化していく。じゃ、寺はどうなるんだろう。シャンデリア(みたいなもの)も、あの煙の匂いも、元々は意味があり、そこからだんだんと変わってきたはずです。元々は、シャンデリアじゃなかったかもしれない。
よく掃除された畳も、沢山の人が歩いてつるつるになっている床板も、使い込まれたお盆も、そこが愛されている意味のある場所だから、よく使われ掃除されているはずです。
お寺も、日常の文化も、どうやって残っていくのか。その残り方は意図して残していくのか自然に変化するものを受け入れていくのか。読経に時々シャウトしていた1才児がおとなになる頃には、どうなっているのか。
使われる文化は少しずつ変化するから、昔はお寺でシャンデリアと煙と木魚だったよね、時々太鼓もあったよね、という時代がくるのかもしれません。残るとは、時代に寄り添いながら、大事なことを包摂して、変わり続けることですよね。